筑前黒田藩の足軽の子として生まれ、名は二郎。
脱藩し、尊王攘夷運動に奔走する。
誰の家来でもなく、天皇の臣であるという考えから「国臣」と名のった。
文久3年8月17日に、吉村寅太郎らの天誅組の変により運動の士気は高まったが
翌8月18日の政変で形勢は逆転し、その後、平野国臣らは但馬で生野の変を起こすが
惨敗し、京都六角獄にて獄死する。
福岡市中央区地行の派出所の横に生誕地。西公園に銅像がある。
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